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活動報告

これまでの流れ

これまでどのように芸術解明を行ってきたのかを節目毎に展示物等と共に報告していきます。

​その時点での私自身の「芸術」への考え方などの変化が見れるかと思います。

​報告ファイル(1)

専門学生の頃描いたものです。
小中高とイラストは描いていましたが大学に入ってからそれまで好きだったイラスト、アニメ等から離れた為、専門学校に入学した際まだどれくらい描けるか確かめるために描いた物です。
丁度液晶ペンタブを初めて買ったのと重なっていたと思います。

まだ芸術解明の認識はなくただ書く行為にふけっている状態です。

この時は「かわいい」より「綺麗」が好きでした。

​報告ファイル(2)

専門学校を卒業後フィギュア原型や特殊メイク、特殊造形やっていましたが「コレに何の意味があるんだろう?自分の行動が社会の持続活動にしかならないんじゃないか?」という思いが強くなりそれまで横に置いといた「アート」を再度見つめ直そうと思った時に造った作品です。

この時期は一年ほど西洋、日本美術史や現代アートを扱った本歴史書等を読み美術の歴史と人の歴史がどのように関係しアートが構築されてきたかなどを調べていました。

この作品は東京のフィギュア即売会イベント「ワンフェス」に出しました。
大きい物以外は全て売れましたがこの作品を人が何を思って買っていくのか、この作品は「作品」なのかは不明のまま終わった記憶があります。
特に「商品」「作品」「芸術品」「美術品」「創作物」の違いはこの後も自分の中で答えが見つからなかった問題として残っていました。

​報告ファイル(3)

前回の人体から植物が出てる作品の次に作った作品です。
大きさは大体1m位です。
前回のモヤモヤが解消されなかったので作品の出来上がりでは無く制作過程に重点を置いて作ってみた作品になります。

はじめに女性のトルソ(上半身)を粘土彫塑し、型取りをしてコンクリートで成型しました。
綺麗に完成させた後、粉々に砕き画像のようにトカゲの形に組み直した作品です。
コンクリートを使ったのは頑丈で砕き易い素材を選んだ為です。
トカゲの形に組み直したのは質量的に組み直し可能な細長い生き物を選んだだけで深い意味は考えていませんでした。
砕いた際に出た粉末状のコンクリートも残さず全て使用しています。

現代のアートは表面上だけでは完結しないんじゃないのかと思い、わざと回り道をして完成形からだと分からない粘土彫塑(女性像)、コンクリート(女性像)、コンクリート(女性像)どのタイミングが完成だったのかを不明確にしたかった作品です。

この時期は前回の「作品」や「商品」等の違いに悩みながら「美術」と「芸術」の違いにも悩んでた時期です。

​報告ファイル(4)

この作品は「作品」「商品」の違い、「美術」「芸術」の違いに悩んで作った前回の作品の後、半年位コンクリート作品を作った後の作品になります。
この作品の1つ前の作品は球体関節人形を作ったのですがすぐ売れてしまいました。
球体関節人形としては安い値段設定だったのもあると思います。
球体関節人形の写真は写真を撮っていない事に後で気づいたので写真はありません。

左の作品は蝉の羽根を中心の球体から等間隔、等距離で配置したものとなっています。
丁度ダミアンハーストの作品(鮫のホルマリン漬け)を見て「カッコいい!!」と思い生き物を扱った作品を作ろうと思い作った作品です。
前回の作品から答えが全く見えないままだったということもありますが「死」を取り扱ったモノにはマイナス方面の力があるのでその魅力にやられてしまいました。
「死」にはある意味、自然物が美しいのと同じように無条件の吸引力があります。
その為、この時は特に難しい事は何も考えていません。
唯「死」を扱いたいと思っていただけで自慰行為に近い作品と言えるでしょう。
そんな魅力にやられてしまい作った最初の作品がこの作品になります。

​報告ファイル(5)

この辺からテーマに「死」を含めるようになってきます。
「死」は非常に使い易い?テーマです。視覚的にショッキングですし、なんだかんだで興味があったり好きな人が多いいです。
そんな中出来たのが今回の作品、前回の雰囲気をかなり残しながら蝉の羽をより「美」と言い易い、感じ易い、対象に替えています。
綺麗な蝶々が空中で破裂した感じです。
ひらひらと舞っている蝶々が突然空中で木っ端微塵になる瞬間。

​鳩の方も同じく道端で死んでいた鳩を解体して作った作品です。

今見ても人間的良心と動物的本能のせめぎ合いを感じます。この時から自分の好みは変わってない気がします。

この作品を作るに当たり、標本の作り方、標本用の蝶々(生物)の飼育方法、その販売場所、商品形態等と人が他の生き物を商品として扱う過程を色々調べ実践してみました。
体裁の中に興味と好奇心を隠し、良心を正当化する理由を自分の中で作り制作を行いました。
初めは「趣好」から入り「好奇心」の力を借り準備を行いますがいざ目の前にし時、「恐怖心」と「良心」が現れます。
ですが「正当化」に背中を押され一度作業に取り掛かると集中と共に現れる「探究心」によって善悪の認識は無くなり「制作」の快楽に身を委ねることになります。
気付けば達成感と共に作品が出来上がるという訳です。
ですが一つの命を弄んで得た価値としては非常に小さい(むしろ無価値に近い)と感じました。
それと同時に「人間」が嫌いになり、世界の小さを感じた最初の作品です。

​報告ファイル(6)

出来上がった作品ではなく人の行動、行為が重要なのではないかという考えと以前以降の「無」や「虚無」のような状況からの影響により仏教のような宗教的傾向を盛り込んだ作品になります。

約2m×3m四方のパネルをひたすら鉛筆で黒く塗りつぶす作業を行って出来上がったものです。

塗りつぶしを行う際は「一度も画面から鉛筆を離してはいけない」という無意味な条件を付けた追い込む系の作品で9時間ほど塗り続けました。

単純で単調な行動を強いて自身を律する事で「人間」らしい行動とその記録としての筆跡が残る形となっています。

​報告ファイル(7)

芸術の存在には「人」という存在が必要であり、人間至上主義的な観点が強いと考え、必然的に「社会的人間性」と「生物的人間性」と「物質的人間性」この3要素によって構成されているとの考えに至った時のものです。

人間が社会的生存形態を持っている限り他者との関係性、言うならば「需要と供給」のような提供する側と受け取る側との関係が必須であり、その際の情報のやり取りは生物的に「視覚」「嗅覚」「味覚」「触覚」「聴覚」の形状に変換されていなくてはならず大きく分けると芸術の形状はこの5つに別れる。

更に物質的に絶対影響を受ける「一方向に流れる時間」も重要な要素となり、芸術が生まれてからこれまでと言う「歴史」を考慮に入れた上で「今」その芸術に存在意味、価値があるのかが考慮される。

この「社会的人間性」と「生物的人間性」と「物質的人間性」と言う3要素が芸術の存在には必須であり、これを考慮に入れたものが「今」の芸術になると考えられる。

​報告ファイル(8)

人の認識外、人ではない存在にとって芸術はどんな意味、価値があるのか?

芸術が人の為に存在するのであれば人以外にとっては無意味で無価値なものになるのではないか?と言う自身の答えに対する問いかけ。

​芸術を構成する為には「社会的人間性」「生物的人間性」「物質的人間性」の3要素が必要である。

もう少し正確に言えば芸術に価値を見出すにはこの3要素が必要。

ならば人間以外の生き物にとって芸術は無価値の存在として認識されており芸術を崇拝しているのは人間だけなのではないか?

SFになるがもし宇宙人が宇宙より飛来したなら芸術をどう見るのだろうか?

​芸術が人にもたらす影響、利用価値、その存在理由を考えるようになった時期の作品になります。

​報告ファイル(9)

人が芸術品や美術品、といった「作品」を買う理由、動機と「作品」を作る理由、動機。

アートが市場を流れる原理を探る為に行った展示会。

買う側、売る側の存在理由は一致しているのか?そこに誤差は生じているのか?

双方にインタヴューしその内容の一致と差異を検証し人にとってのアートの利用価値、存在価値を探りました。

​更にその結果報告によって流通を担っていなかった人の考えがどのように変化するかも検証。

​報告ファイル(10)

機械的に作った「絵画作品」をアートを担っている人間がどのように判断、評価するのかを検証。

「美」それも絵画作品としての「美」の構成要素は絵画の特性上、平面的表面に現れる視覚情報で構成されている為「素材感」「構図」「テクスチャー」「色」4つの要素によって相手に情報を提示する。

「素材感」は表記がなければ「〇〇が使われていると思う。」と言う不確かな認識で決定し、「構図」はその人が育った環境の中で最も良く見る配置が「良い」ものとなり、「テクスチャー」は無、点、曲線、直線の4つの組み合わせ。「色」は構図と同じくその人が育った環境の中で構成されていく。

そこでこの4つの要素原理を考え、更に「良い」と判断する確率を上げる為「素材感」「色」と言う操作しづらい要素を削り「構図」「テクスチャー」のみで構成された作品を制作し公募展へ応募し、その判断と評価を検証する。

「構図」は日本人の黄金比である白銀比によって構成。

「テクスチャー」は無、点、曲線、直線の4種類で構成。

結果は高評価ではないが受賞となる。

​報告ファイル(11)

素材自体が持つ「力」とは何が原因、要因でそのように感じるのかを検証。

日常生活の中で構築されて来た「物」に対する先入観を利用することでどのような情報操作、認識誘導が可能なのか?そして人はそれをどれほど認識することが可能なのか?を検証する為、多くの人が先入観を抱きやすいだろう素材で作品を構成。

使用した素材は「塩」「骨」

「死」を連想しやすい素材を用い「死」と言う情報が鑑賞者に届くのかを検証。

結果「死」と言うピンポイントな名詞より、感情面である「怖」と言う情報が届くことが判明。

広い意味で届きやすい情報は感情面的情報であり、名詞を届ける場合は絵画的に通説な意味を持った視覚的隠語が必要である。

​報告ファイル(12)

「性」という話しづらく伝えにくい内容をアートという形に変換する。

展示会場のすぐ裏が小学校という環境下で「性」(性別、ジェンダー問題、エイズ)をテーマにした展示空間を作りどこまで「性」から遠ざけた「性表現」が可能かを検証。

結果として表上「性」を感じさせない性表現が可能となったが、それを完結させるためには鑑賞者の観察態度や観察姿勢も重要であり作品を読み解く事に慣れていない鑑賞者には絵画的な表面情報のみでしか作品理解が叶わず、そのような鑑賞者ようの説明文を必要とした。

この事から鑑賞という行為の中にもジャンルが存在し、対応していない他ジャンルの鑑賞は不可能であり需要側と供給側の一致も考慮に入れなくてはならないことが判明。

​報告ファイル(13)

「美」のまとめ的な展示を開催。

美しくない美など「美」の範囲が拡大反転した現代の状況を報告し、以前の「美の構成要素」以外の「美の判断基準」を発表。

展示された作品は全て平面作品の抽象画であり「個人的美の判断基準」によって制作された作品のみである。

美においてもその判断基準は芸術の3要素を踏まえた上で「社会的美の判断」と「個人的美の判断」の2種類に別れると考えられる。

「社会的美の判断」においては対応するコミュニティ(組織、社会)のリーダーによる判断がそのコミュニティ内での判断基準となり、「個人的美の判断」においては判断者個人の幼少期に記憶された基準とその後の衝撃的上書きによってその判断が決まる。

社会、個人共に個人的「好み」が中核にあり、そこに芸術の3要素が加味される形となる。

​報告ファイル(14)

以前検証していた素材自体が持つ意味や力、そしてその効力の報告。

さらにこの世界にある様々な「力」がテーマになっています。

私にとって「怖」という感情を扱うのは私個人の好みや趣向も合間って得意なようです。

人間にとって「怖」の感情は生命保全にとても重要でありそこに目が行きやすいとゆうのもあるでしょう。

お金や情報の力、権力の魅力など「力」という存在は生物を引き付けるようです。

今回はそんな「力」を直接的に表したり、持つ者と持たざる者の立場から考察したりしその特性について少し明確になってきたかと思いますが私自身が持たざる者側の人間な為、その確証はまだ先のような気がします。

ですがこの「力」という存在は強い魅了を持っており切り取り方を工夫すれば多くの人が認識しやすい情報を含ませることができると考えられます。

​報告ファイル(15)

​これまでずっと頭の隅にあった「死」について一度まとめ、自分の中での認識を確認しようと思います。

以前報告したように「死」には非常に強い力があります。

前回の報告テーマは「力」でしたが「死」における「力」についてはこちらにまとめてあります。

動物の死はよく見かけますが人の死は数回しかありません。

そしてその中でも寿命以外での死は非常にショッキングなものでありながら時に現実離れしすぎて「偽物?」と疑ってしまう事もあります。

右の作品は車に轢かれた動物に対して見せる人の行動、そして轢かれるタイミングによって変わる感情の違いが考察対象であり、中央の作品は「死」の中に不謹慎ながら見つかる「美」。

その他食料としての「死」を確認してみました。

結果、「死」というものには2つの存在があり1つは「結末」として遠かれ近かれ必ず我が身に訪れる決定的結末の証拠であり、生物的危機感のようなものです。

もう一つは「持ってはいけない物」をファッション的にを持つような優越感をもたらす存在だと思います。

​報告ファイル(16)

これまで構築してきた環境やその物の存在意味に反発するような形を提示し、その結果、元の環境や存在が崩れるのか崩れないのか?

既存の存在の強度を調査する。

元は平面作品としてあった物を立体作品として形状変換させた場合、平面と立体どちらの存在として認識されるのか。

展示会にてそのテーマや本質が解らない状態にした場合、企画側、鑑賞側はどのように対応するのか。

結果、既存の存在を崩す事なく「アート」という柔軟な布に包まれ認識される。

​これは現在のアートの扱い、認識の不確かさとも取れる。

​報告ファイル(17)

人以外の作家の存在は認識、了任されるのか?

以前の報告で芸術は人の為に存在していると考えられた。

ではその芸術を作る側は人間でなくても大丈夫なのか?象が絵を描くなどというパフォーマンスは見た事あるがそれの発展系において人は納得できるのかを検証する為、AI(人工知能)に芸術活動を行わせ、その実質的存在の無い作家が作家として認識、了任されるのかを検証する。

AIによる架空の作家は「仮想作家 氷菓」と命名しプログラム構成を行う。

しかしそれに伴いこれまでの芸術要因を踏まえて制作を行うプログラムを構築する必要があるが技術的、物理的理由により全ての芸術活動をAIにさせる事は現行不可能である為、作品の制作部分をAIが担当しそれ以外の企画、宣伝、公表部分は人が担当する「AIと人のハイブリット」という形で進める事となる。

​今後自己展開のシステムプログラムが課題となる。

​仮想作家 氷菓HP

http://makotohazime.wixsite.com/hyouka

​報告ファイル(18)

AIによる仮想作家「氷菓」公募展への出展とグループ展への出展、他の作家との二人展を企画

企画に沿ったモチーフを氷菓独自の作品形態として構成、出力し応募、出展する。

 

結果、公募展は審査員賞を受賞。グループ展では作品購入者が決まり、二人展も好評のうちに終了。

しかし現実の対応は全て人が行う為、まだ人による芸術活動との認識が強く簡単でもAIによる対応が望まれる。

更にまだ根本的に芸術活動要素をAIが考慮して考案するプログラムは存在しておらず「職人」的な立ち位置に止まっている為、技術面での発展も望まれる。

公募展、グループ展ではまだAIの認識が世間に広まっていなかったが二人展の段階ではAIの一般認識が広まっておりAIによる作品制作の概念を理解する人の数が増えていた。

​報告ファイル(19)
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ここ数年取り掛かっている「日本国内のアート事情」「AIによる作品制作」をまとめる。


日本国内のアート事情
これまで「芸術とは何か?」を解明する為に自身の制作衝動を基に分析し、その行動と美術史を見比べながら制作行動の芯にあるものを探って来た。
だが私が住んでるこの日本国内では「アート」をどう扱っているのかを知る事でより「アート」を客観的に見れると考え、日本国内の主要都市を中心にその地域の特徴や展示されているアートの方向性を見ることにした。
その結果アートがある程度根付く条件の様なものが見えて来た。
先ずは人口、100万人以上がその地域に存在している事。これは現在までに人の根付く環境、流通が継続的に持続する基盤が必要な為だと思われる。
それに伴いその地域に富裕層地域が構成されている事も重要である。
これはアートは資産的余裕が無いと継続的な定着と持続と発展は不可能という事である。※個人レベルでの持続は可能
そして各地によって特徴がある事が分かった。
大雑把な範囲でピックアップすると


北海道:彫刻が強く発展にも力を入れている。
東京:流通に特化し数の絶対力がある。
名古屋:名古屋内流通と教育が強く「名古屋色」形成が目立つ。
大阪、京都、兵庫:流通に弱いが源泉作家率が高い。
広島:映像と平和に強いが基盤が薄い為、力が弱い
福岡:アジア圏に強く独立的


のようになっています。
今回国内を回って得た事は各地の特徴でしたが、それ以上に得た事は日本国内でアートと一括りにされている「美術」と「芸術」はやる事が違く、「美術」はお金を産むが「芸術」はお金を産まないという事、そして私自身は「美術」をやりたい訳では無いという事が明確になりました。


AIによる作品制作
AIによる作品の出展を通しAIの独立にはまだ時代が早い事が分かった。
技術的にも未熟な為、認識的には新しい手法程度にしか認識はされず私が求める「AIの人格化」からの人間性の拡張には至らない結果となった。
そこで今回コンセプトの提示方法を変える事とした。
今まではAIという存在を一人の人格と仮定し、人以外の創造主への受け入れを通し「人間性の拡張」を試みたがAIの人格化という根本が問題だった為、「AIの人格化」に重点を置く事とした。
現在のところ「万能なAI」と「AIの独立」は不可能なので現状のAIと機械双方の技術的未熟さを「機械の実際の姿」とし、そこで生じる不明確さ、曖昧さ、粗さを提示する。
その「不明確、曖昧、粗」は通常なら機械の故障と考えられ人の手によって修正を施す部分だが、その部分こそ「機械の実際の姿」である為、その部分を楽しむ事を重要視する。
この機械の「不明確、曖昧、粗」を楽しむ事が出来ればその作品の制作主(AI)を尊重する機会となり間接的で擬似的ではあるが「AIの人格化」に近づくと思われる。

​報告ファイル(20)
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今回は

・「札幌の展示会場、展示スペースの分布や環境、財政、経営方針、特徴の発表」

・「AI(人工知能)による芸術の拡張」

・「投機的作品の流通」

3つのアプローチによって芸術を分析しました。

最初の「札幌の展示会場、展示スペースの分布や環境、財政、経営方針、特徴の発表」では札幌にある展示会場の分布地図や考察によって札幌のアートについて説明しました。

 

続いて「AI(人工知能)による芸術の拡張」では人がどのように芸術を生み出すのかを機械であるAI(人工知能)を通すことで理解の促進を計りました。

 

3つ目の「投機的作品の流通」では高額な作品価格の原理を小規模で再現しましたのでなぜ作品が高額になるのかの理解促進を計りました。

最後に「私が考える芸術について」をまとめこれまでの活動を記録した「活動報告」も展示しました。

これらの内容によっていまいち扱い方の定まらない「芸術」の輪郭が見えるのではと考えます。

​展示を行った期間中は来場者にまだ調べきれていないアート関連施設の情報を書き入れてもらったりしながら地域の人たちとの交流を図り、実際にアートとどう関わっているのかを聞く事ができました。

​報告ファイル(21
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「遊撃手」というアート系フリーペーパーへ掲載

内容は産業革命を軸にこれまでのアートの流れ(美術史)の遍歴を紹介した内容となっている。

今アートはどうなっているのか?それを大まかにでもわかるよう1ページにまとめてみた。

日本には「アートとは何か?」という中心の目的が定まっていないように思える。

それは絵を描いてる作家を含め見る側もである。

これはアートの理解が進めば自ずと解消され、アートの多様化する表現にも臆せず触れることができ、その作品をどのように自身が見ているのかが明瞭化できると考える。

作品を作る「作家」においても自身の表現活動がどこに向かっているのか?という方向性の理解にもつながり、その作品をどのように発表すべきなのかも考えることができるようになると思う。

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